うちは困っている。困っているというか、「しょうがないね」と最近では諦めている。毎朝、食べたいパンが食べられないことを、である。
西荻じゅうのパンを試してみた。吉祥寺や荻窪で買えるパンだって視野に入れている。でも、だめ。食べたいパンはどこにもない。おいしいと評判の岩手県のパン屋さんから、わざわざ取り寄せてみたりもした。でも、だめ。これではないんだよなぁ(この程度なら、わざわざ遠くから取り寄せなくたって……なんて小さくつぶやいてみたりして)。

近所にあった『三月の羊』のパンが好きだった。ご存じの向きも多いと思うが、妹がやっている『ニヒル牛2』のカフェにはかつて、『三月の羊』のトーストにエバジャムを添えた“甘トースト”というメニューがあった。『ニヒル牛2 』はアート雑貨を売る店なので、平日などカフェの利用者が少ないときもあり、そうすると余ったパンを喜んでうちが引き受けた。もちろん、自分たちでもよく『三月の羊』へパンを買いに行った。
そんなふうにパンを食べ続けているうちに、わたしたちは気がついた。「このパン、全然飽きないね」「毎日食べ続けておいしいなんてすごい」。
トーストしてバターを塗っただけのを食べても「ああ、おいしい」と毎朝思うし、国産の果物で作られたエバジャムをのせて食べれば「ああ、ごちそう」と思う。『三月の羊』のパン以上のパンが、この先われわれの前に現れる望みは、はっきり言って薄い。いや、なんてことのないプレーンな食パンなのだ。なのにどうして、よそのパンはあのおいしさのレベルの足下にも及ばないのか、不思議でしょうがないくらい、なんてことのない普通のパンなのだ。それがおいしかった。しみじみと。ばつぐんに。1年365日、毎日食べたいほどに。
北海道への移住にともない、『三月の羊』の芹沢さん一家が西荻の店を閉めたのは、去年の5月のこと。閉店間もない頃、パンを買いがてら店へ行って「インタビューをさせてもらえませんか」と頼んでみると、店主の芹沢章正さんはいつもの穏やかな口調で言った、「そうですね。店を閉じて北海道へ行くこと、ちゃんとお話していないですものね」。
ちゃんとお話してない、と彼が言うのはわたし個人にではなくて、西荻窪のひとたちに、『三月の羊』という店を愛していたひとたちに向けて、なのだ。芹沢さんは続けて言った。にやりと笑いながら「長くなりますよ。何しろ20年分の話ですからね」と。
長い長いインタビューの始まりです。数週間にわたって掲載します。時間のあるとき に、お茶でも淹れて、彼とわたしのおしゃべりにつきあってもらえるとうれしいです。
- 写真/宮坂恵津子
写真家。書籍や雑誌などで活躍。三鷹市在住。
- イラスト・デザイン/信耕ミミ
アニメーション作家。土曜隔週更新『落としものの三角カンケイ』連載中。

- プロローグ
- 2011.3.15
- その1・Boy meets a his SHIGOTO.
- 2011.3.15
- その2・修業時代と羊の原体験。
- 2011.3.21
- その3・『三月の羊』開店→西荻へ移転。
- 2011.3.28
- その4・エスケープルート
- 2011.4.4
- その5・生活するのに理想の地。
- 2011.4.11
- その6・日本を放り出されても大丈夫。
- 2011.4.18
- その7・パンのひみつ
- 2011.4.25
